ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

教育大学園情報誌31号

5 Autumn/Winter 2019 No.31 に置かれており、戦後、新制度の教育制度に変わってから男子高等科(現幣舞中)が南中学校、女子高等科(現釧路校)が東中学校へと変わりました。 歴史をさかのぼると、釧路校の校舎が建っているこの土地には、戦前から”学校“が建てられていました。ここには、かつて釧路市女子高等小(女子高等科)が建っており、戦前の教育制度は小学校六年間の後に男女別の高等科二年間(現在でいう中学二年生まで)に進学するというケースがあったため、そこには六年制の旧制尋常小学校を卒業した女子学生がより程度の高い教育を受けるために、高等科に通っていました。 男子高等科は、現在の幣舞中学校の場所大学が開校される前には何が建っていたの?03兼教官室(城山校舎)が設定されました。その後(事務部は市役所庁舎内に設定)六月に事務部を城山校舎内に移転し、翌年に東中学校が南中学校の一部を借りる形で移転していくことになり、東中学校の校舎がすべて北海道教育大学釧路校校舎になりました。 一九四八年(昭和二十三年)に釧路市長より、教育大学を釧路市に設置するよう、教育関係機関に要望されたのがきっかけです。その候補地に東中学校の校舎が挙がりました。翌年の一九四九年(昭和二十四年)五月に釧路市より、東中学校の校舎の西半分が提供され、主事室どのような流れで大学が設置されたの?04スについて、一体どんな歴史があるのか、これまで疑いもせずに信じていたことに目を向けたり、考えようともしなかったことに対して、考えてみようとする姿勢へのきっかけになるのではないかと考えました。これからまたさらに歴史が積み重なり、新たな話が噂されるかもしれません。もしかすると今回のように歴史をたどることで解明できる謎なのかもしれません。この特集を読み、昔のことを振り返ると新たな知識が身に付けられることもあると知ったわたしたちから、探究することを高めていけたらと期待しています。 今回の調査を通して、釧路校は病院だった場所を大学として使ったのではなく、もともと中学校だった場所の一部を使って開校していたということが分かりました。また、棟に分かれていたり、一階の購買へ行く廊下が長いなど、病院の構造らしく思えることから「釧路校はかつて病院だった」という話が噂されたと考えられることについては、歴史をたどることで、「学校として建てられていた場所を使った」ということや「校舎の火災などで新しく建てなおした」という事実が分かったことにより、「単純に構造が似ているだけであって本来大学として建てられた」ということが証明されました。 今回の調査を振り返って、〝釧路校は病院だった?と今まで信じていた釧路キャンパス生はじめ、他キャンパス生がさらに釧路校の歴史に興味を持ったり、また、各キャンパ最後に05レポーターの声釧路校・教員養成課程・地域・環境教育専攻2年小笠原 紀佳(おがさわら のりか)私自身、“釧路校が病院だった”という話を他キャンパスの友人から聞き信じていたので、調査をすることで自分の通う大学の歴史も知れたし、その友人にも「実はあの話違ったんだよ」と話せる日が楽しみになりました!!午後八時頃、釧路沖地震が発生したことにより、校舎自体に大きな損傷はなかったものの、教室が被害を受けました。その後校舎の修復工事が行われ、さらには一九九四年(平成六年)に新附属図書館がオープンされました。 その後新たに、一九九六年(平成八年)一月、研究棟Aが着工し、同年十一月二十七日には完成。一九九九年(平成十一年)四月、研究棟Bにも着工し、二〇〇〇年(平成十二年)三月には完成しました。その上、管理棟・講義棟の大規模改修が行われ、より現在の形に近づくこととなりました。建物の変化に加え、二〇〇九年(平成二十一年)に建物の名称変更がされることになり、自然科学棟は教室棟Bへ、幼児教育棟は研究棟Cへ、技術職業棟は研究棟Dへとなり、現在の釧路校の姿になりました。現在の校舎上/1968年に完成した新校舎の全景下/1993年の釧路沖地震後の校舎