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概要

教育大学園情報誌31号

13 Autumn/Winter 2019 No.31 レポーターの声旭川校・教員養成課程英語教育専攻3 年朝日 郁絵(あさひ いくえ)実が図れないまま、教育をしなければなりませんでした。そして戦争が進むにつれ、国家主義的、全体主義的教育がなされるなか、本来の「教員を育てる」という目的は見失われてしまい、一九五一年、北海道第三師範学校は名実ともに廃止されました[1]。 一九四三年三月六日の勅令第一〇九号により師範教育令が改正され、札幌、函館、旭川の三師範学校は、それぞれ第一、二、三師範学校として専門学校程度に昇格しました。しかし、教員育成のために開校されたはずの師範学校は、戦火のなかにその本質を見失っていきました。戦争のなかで教育内容と施設の充取材に訪れた、旭川キャンパス近傍のアイヌ記念館。加藤雅之先生戦禍を越えて、官立北海道第三師範学校04北海道学芸大学が設置されました[1]。そして、一九六六年に北海道教育大学旭川分校となり、一九九三年に現在の北海道教育大学旭川校ができました。 一九四九年五月三十一日の国立大学設置法により一都道府県一国立大学設置の方針が確立されました。平和的民主的国家社会の形成に寄与することを目的として札幌、函館、岩見沢、旭川、釧路の五分校と本部をもって平和を願い次の世代へ、北海道学芸大学旭川分校05 戦後、教育に力を入れようというなか、旭川校を襲ったのは深刻な教員不足と建物不足でした。 都道府県に設立された各新制大学が、こぞって人員配置の充実を図った時期であり、教員の確保は特に難しかったそうです。 そして、学舎の確保も困難を極めました。北門町地域(現在の旭川キャンパス)だけでは大学教育に対応できず、春光町(現在の附属小中学校付近)にあった師範学校女子部の校舎を利用し、人文科学、社会科学、教育科学、美術、家庭科の教育が行われました。学生は日々片道二十分の校舎の往復をしなければなりませんでした。特に冬は大変だったそうです[3]。新時代への再スタート、しかし、校舎が足りない!!06旭川校生への願い 今の学生さんには、社会経験をもっと積んでほしいです。自然な関わりの中で人と付き合う経験を積んでほしい。というのは対機械ではなく、対人間との付き合いを学んでほしいです。あとは教師の品格を持って生徒に接してほしいですね。例えば、言葉遣い一つでも生徒に移ってしまいます。生徒に正しい言葉遣いをしてほしいので、教師自身がしっかり語尾を整えて話してあげてください。それも教育の一環です。そして、想像力をもっと働かせてほしいです。今はインターネットに指導案の例などがたくさん載っていますが、自分で考えて、生み出す、そういった力を付けていってもらいたいです。あとは笑顔です。教師が笑顔だと生徒も笑顔になりますから。教員になったOBから見る、現在の旭川校生 一九六八年に旭川校を卒業され、現在は非常勤講師として活躍されている加藤雅之先生が語った、当時の旭川校の様子についてまとめました。 講師をしていて、学生さんが真面目で、教師になりたいと強く思っている学生さんが多いと感じます。私たちの頃は『でもしか先生』というような、教員にでもなるかという学生さんが多かったです。代返もあったし、授業の終わりごろに教室に入っていって受講票をもらったりもしていました。あとは裕福な学生さんが増えたように感じます。ほとんどが旭川や旭川近辺から来ていて、道外から旭川校に来ている人はほとんどいませんでした。私たちはみんな今ほど裕福ではなかったので、寮に四、五人集まって麻雀をしたりしていました。だから昔の学生は絆が深かったと思います。あとは、スーツなんて持ってなかったから学生服で実習に行っていました。昔日の学校行事 大学行事も少し変わりましたね。六稜祭では街中まで仮装行列をやっていました。今は禁止ですがお酒もありました。当時は卓球部に入っていたので、全国大会に行く資金集めでダンスパーティーを主催したこともありました。店からカラオケを借りたり、ミラーボールを借りたりしていました。昔は学生として、現在は先生として?卒業生が語る旭川校?07旭川校には自分の知らない歴史があって調べていてとても楽しかったです。そして先生の学生への言葉「対人間との付き合いを学んでほしい」という言葉が印象に残っていて、教師になる人ならない人を問わず、これからを生きる人にとって大切な言葉だと思いました。引用文献[1] 北海道学芸大学旭川分校四十年史刊行委員会(1964)「北海道学芸大学旭川分校四十年史」pp.3-48[2] 榎森進(2008)「 アイヌ民族の歴史」pp.481-484[3] 北海道教育大学50周年記念誌編集委員会(1999)「北海道教育大学50年史」p.104