ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

教育大学園情報誌31号

12地域が作った旭川校。次は私たちが、地域、未来のために。asahikawaCAMPUS A旭川キャンパス 夏は三〇度、冬はマイナス二五度という寒暖差の激しい旭川。この地にどうして師範学校が建てられたのでしょうか。そこには地元の人々の熱い思いがありました。 北海道教育大学旭川校の歴史は波瀾万丈です。近文アイヌをはじめとしたアイヌの人々との対立、戦争の中で見失ってしまった本来の教育目標、戦後の教員不足や土地不足、たくさんの困難を乗り越え、私たちの学び舎が今ここにあります。旭川校の歴史を学び、そして未来へとバトンをつなぎませんか?右/オホーツナイ川の痕跡を今に残す昭和池。ここにアイヌの集落があった。左/かつての自然を偲ばせる、昭和池の畔のエゾミクリ。画を打ち出しました。そこには秘密の第三師範学校の設置案もありました。それに際し、旭川区の区長や上川管内の町村長らが、旭川は道東および道北の交通の中心地であり、旭川出身の教員数が多いこと、気候風土が保健に適していること、山川などの教育的環境に恵まれていることを掲げ、設置を要求しました。その結果、ついに道庁は一九二二年に第三師範学校(旭川)と第四師範学校(釧路)の新設を許可しましたが、ある条件が付いていました[1]。 一八六八年の明治維新以降、開拓使により道東、道北にまで開拓が進み、北海道の人口は増加しました。一九一〇年から、旭川市では各種の中等教育機関の設置について、北海道議会に議案を提出していましたが、なかなか受け入れられませんでした。その折り、一九一七年頃より、北海道内では正規の教育を受けた小学校教員が不足し、それが教育の低下を招くと危惧されるに至りました。必要性が認識され、一九二一年十一月に道庁は庁立中等学校新設七カ年計画なる北海道中等教育拡充計「和人」のみとなっていました。一九〇二年の第七師団旭川設置に伴い、訓練場の西側の土地「近文(チカブミ)」(現在の北海道教育大学旭川校付近)に住んでいたアイヌの人々は天塩川上流へと強制移住させられました。そんな悲しい過去がある旭川の地に一九二三年四月、官立北海道旭川師範学校として私たちの学校は誕生したのです[2]。 川の多い旭川。川の合流地点が多くあり、上り下りの河川交通として近隣アイヌとの交流の場であった旭川にはもともと多くのアイヌ(ペニウンクル)の人々が暮らしていました。しかし、一八六九年に蝦夷地が北海道と改まってから、旭川のアイヌの混乱が始まりました。特に一八七二年の北海道土地売貸規則によって、北海道の土地の所有権を認められるのは札幌、函館…なぜ旭川に学校が?01犠牲を強いられたアイヌの悲しい歴史。03九十九号で旭川師範学校の開校が許可され、北海道庁告示七百三十九号 「北海道旭川師範学校を旭川市に、北海道釧路師範学校を釧路市に設置し、大正十二年四月より開校す」が発せられました[1]。 旭川市に突きつけられた条件とは、建設費は地元の寄付金によるというものでした。その予算は三六万九九一二円(現在の約二億円)と莫大でしたが、旭川市民の熱心な支援により、ついに一九二二年九月十二日の文部省北普地元民の協力が大学をつくった。02ばくだいや