各種情報・行事等
退職にあたって

思い出すこと
後藤 秋正 札幌校 教授
  後 藤 秋 正
 南22条にあった、今は大規模なマンションや中央図書館が建っている旧キャンパスのことを時々思い出す。木造モルタル3階建ての校舎や附属と共用だった、風が吹くと砂塵で目があけられなくなるグラウンド、そして灯油がしみ出てきたところを見計らい、火のついたマッチ棒を落として着火する方式のストーブなど、不便なことが多かった。ただし、旧キャンパスにも良いところはあった。何よりも交通が至便だったこと、市電の停留所は正門の目の前にあったし、教室を仕切って造ったという研究室は広く、学生達が勉強するスペースをとってもまだ余裕があったこと、夕暮れ時に黒々としたシルエットを見せる藻岩山の風情などはその最たるものだろう。
  移転候補地が、まだ野幌、南の沢など数か所あって検討が続き、あいの里に決まりそうになった時の教授会だったか、積雪の多い地域に移転したら通学・通勤に支障はないのかと質問が出た。当時の分校執行部の、移転予定地の近くにある鴻城小学校では、吹雪で休校になるのは年にせいぜい1・2回であり、小学生が通っている所に大学生が通えないはずはないという答弁で、反対論が急速にしぼんだような気がする。
  太平から通学していたゼミ生は、遠距離通学で終バスが早いと言って苦労していた。その太平よりもさらに北に位置するあいの里での生活が旧キャンパスでのそれよりもはるかに長くなった。あいの里に来てから教員同士の交流、教員と学生たちとの交流が稀薄になったという声が聞かれたが、それもあまり耳にしなくなった。教員も学生もそれぞれの営みに忙殺されているのだ。多忙さの中で何かが失われてゆく。教育大学駅前から続く道の両側の草地で、やかましいほどに鳴いていた雲雀の姿がとっくに過去のものとなってしまったように。

皆様への感謝
佐藤 有 札幌校 教授
  佐 藤   有
 北海道教育大学に34年間お世話になりました。現大学関係そして旧大学関係者の全ての方々に、ご指導とご厚情を頂きましたことにお礼を申し上げます。また、学生並びにかつて学生だった方々に、共に大学生活を共有してくださったことにお礼を申し上げます。
  昭和54(1979)年に岩見沢校(当時は岩見沢分校)に赴任した頃は、まだ赤レンガ造りの図書館とそれにモルタル造りの研究棟や講義棟が繋がる校舎がありました。研究資料や授業の資料はまだ手書きでワープロもありませんでした。大学空間にはまだ「ほのぼの」、「和気藹々」とした雰囲気が残っていたように思われます。高台の校舎から見渡す空知平野の夕焼けは格別でした。ポプラの木々も見事なものでした。
  平成20(2000)年に札幌校勤務となり、5年間働かせて頂きました。当初は国立大学の独立行政法人化の深化や札幌キャンパスでの勤務という新しい環境に適応するのにやや困難を覚えました。しかし、教職員の皆様に助けて頂き低空飛行ではありましたが乗り切ることができました。特に事務の方々には助けて頂きました。大学前庭(図書館前)あたりで囀りながら上昇する揚げ雲雀の風情や暗闇と白雪の中で点灯するイルミネーションにも癒されました。
  日本の大学は1991年の大学設置基準の大綱化以来、急激な改革を求められてきました。今後も続くことは確かです。大きな航海の後もかかわらずドックに立ち寄ることが許されず、洋上で修理・改造をしながら更なるミッションの継続を求められる巨船とそのクルーが思い出されます。
  北海道教育大学の発展と皆様のご健康を心からお祈りいたします。

図書館等に支えられて
-未完の歴史のジグソーパズルに挑んで-
遠藤 芳信 函館校 教授
  遠 藤 芳 信
 1979年10月に函館校に赴任しましたが、首都圏から離れる場合の研究水準の維持にかかわっては若干の不安がありました。
  しかし、函館校に赴任してからはそのような不安はやや消えました。近代日本軍制史研究の資料収集の基調としては、大学院博士課程在学4年目あたりからは「図書」よりも「公文書」の調査にシフトしてきましたが、それでも、ベースになる「図書」は欠かすことはできません。しかるに、当時の函館校の図書館には『法令全書』や『法規分類大全』及び『日本外交文書』等の基本的な図書が整備されていて、今日まで利用してきましたが、非常に幸運であったと感謝しています。また、近年、国立公文書館等や国立国会図書館に所蔵されている近代関係文書と図書もしだいにデジタル化され、インターネットでの検索が容易になったことも幸いでした。
  その後、数年前から本州の府県立図書館や文書館をくまなく調査する目標を立てました。まずは西日本から挑みました。そして、現在までに沖縄と九州・四国の全県を含む約20の図書館と文書館において当該府県下の地域関係資料(「郷土史資料」等、府県庁や旧町村役場所蔵文書等)を調査できたことも有意義でした。特に、それらの文書簿冊群には旧陸軍省・師団等の通牒文書等が紛れ込んでいるものもあり、図書資料群には近代の諸戦役・兵事等にかかわる地域の冊子類(手記等や団体機関誌等)が含まれていることもあります。それらに触れた時は、「なるほど、そうだったのか」等々の、あたかも縁(ふち)なき歴史のジグソーパズルの一片が埋められたような感慨に溢れ、胸が高鳴るとともに、遠距離旅行の疲れなども一瞬のうちに吹き飛ばされる思いでした。
  退職後も残りの府県立図書館や文書館を訪れ、図書・文書との出会いを楽しみ、新たなエネルギーと刺激を得る気ままな旅を続けるつもりです。

研究と教育と
冨田 幸雄 函館校 教授
  冨 田 幸 雄
 私が北海道教育大学函館校にお世話になったのは、昭和から平成に改元された翌年の10月でした。当時、本学は、英国の大学カレッジにも似た5分校体制下にあって、大学院を設置・完備することが最大の目標となっていました。
  研究成果に重点を置く研究所から、教育を通して地域・社会に貢献できる人材を送り出すことを目的とする教育大学に着任した当初は、教育と研究のバランスに苦労しました。私の専門は流体工学、特に「気泡の動力学」ですが、それをどのように教育内容に反映できるのか。示唆を与えてくれたのが教養科目「水と空気の流れ学」の担当でした。受講生は様々な分野に所属し、興味の対象は多様です。一方で、20歳前後の青年が抱く共通の疑問に応えるため、水や空気に代表される身近な流体現象を、「流れ」をキーワードとして、簡単な実験を取り入れながら、1回完結型の15回の講義内容に仕上げました。授業の最初に行う学生との意見交換「声」と、最後に画像紹介する海外体験談は重要な役割を担っていました。また、卒業研究などの成果を次年度に反映させました。
  噴水や水琴窟の研究は教養科目を担当したからこそ出会ったテーマだと思っています。大学院の学生を連れてハイデルベルクの噴水をビデオ撮影し、その運動をスペクトル解析したこと、また1ゆらぎを意識しながら水琴窟の音作りに没頭したことが懐かしく思い出されます。退職が近づくにつれて、本来の専門である微細気泡と超音波の医学応用の研究に専念し、ひとつの論文を完成させました。宿題として残っていることは、附属函館中学校長時代に知った、附属中に植樹されている「ニュートンのりんごの木」の親株の記念樹を、ニュートンの生誕地ウールスソープで直接自分の目で見ることです。
  さて、22年半という永きにわたって本学の教職員の皆様方には大変お世話になりました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

未熟であるということ
片山 晴夫 旭川校 教授
  片 山 晴 夫
 「定年退職」という記号は自分にとって何か。生涯の「なかじきり」(森鷗外)なのか。それとも運命的な抗いがたい記号であるのか。あるいは「後世」(芥川龍之介)に席を譲るべき時点を指示する記号なのか。熟思すべき問題であろうと思う。
  また、積み重ねてきたと自分が夢想している仕事が、誰にとって、何のために役立っているのかと問われれば、遺憾ながら明確な答えを見つけることもできない。加えて、「定年退職」は「絶対的」な記号ではない。共同体を構成する人間たちが決めた「相対的」な記号である。今はそのように受けとめている。
  未熟な仕事を積み重ねてきた39年と10か月であったと思う。その時は一生懸命にやってきたように思うのだが、今になってゆっくりと冷静にふりかえってみれば、どうしようもない瑣末な仕事をくり返してきたように思う。一つひとつの仕事が出来上がった瞬間には、それなりの達成感もあったと思うのだが、少し時間が過ぎてみると、それはぼんやりした錯覚に過ぎず、「まだまだ」という思いがこみ上げてきて、忸怩たる感慨に陥ることばかりであった。私の生涯は、いつまでたっても、まさに「普請中」(森鷗外)なのだと思う。
  しかし、後悔ばかりではない。これまで近代文学を研究してきて、テクストの「ことば」を読みながら、自分の「ことば」を見直してみることが楽しみであった。誰におしつけられたのでもなく、己が選んだ仕事の中で、「道なき森に分け入りて」(島崎藤村)苦闘することが喜びであったと思う。
  「どのような人も未熟のままで死んでいく。」-これは旭川の同人誌「愚神群」の仲間から教えられた言葉(記号)である。そのとおりであると思う。そして、これまで「北海道教育大学」に育てていただいたことに感謝申し上げる。

退職にあたって
生方 秀紀 釧路校 教授
  生 方 秀 紀
 うららかな春の日差しの中で、穏やかに定年退職の日を迎えることができました。1979年10月に理科教育担当助手として採用されて以来、釧路校で大過なく仕事を続けることができたのは、ひとえに先輩・同僚の教職員の皆様のご鞭撻・ご支援の賜物です。この場を借りて、心より感謝申し上げます。
  理科教育に関わって講義や卒論・修論指導をするにあたって、私は、学習指導要領の解説や教え方のテクニックといった、現場に出ればすぐに身につくことがらの切り売りではなく、自然科学の本質的知識や研究の仕方を理解し、その上で自ら新しい教材開発・授業づくりをする力をつけることに主眼を置きました。そのように指導できたかどうかは、はなはだ心許ないですが、研究室を巣立った学生・院生がその後教育現場や研究で活躍している姿を見ると安堵感を覚えます。
  地球環境問題がクローズアップされた1990年前後から、私の研究の関心は環境教育にシフトしていました。そのこともあって2006年の本学の課程再編に際しては、新設の地域教育開発専攻への所属換えを志願し、専攻カリキュラムの開発や教育組織の構築にも深くかかわりました。この専攻の理念は、国連・ユネスコ主導のESD(持続可能な開発のための教育)のローカル版と言えるものです(生方・神田・大森編『ESDをつくる』ミネルヴァ書房、参照)。
  ESDは未来世代に対する公正さを前面に出している点、大いに評価すべきものです。しかしながら、どちらかといえば開発の方にウェイトが置かれ、自然環境、とりわけ生物多様性の保全や有限の資源の持続的維持に関しては不十分であるという指摘を免れえません。今後は、数世代先の未来ではなく、数千年、数万年先の人類、さらには多種生物にまで公正さを拡大するとともに、グローバルなガバナンスを環境側に大きく引き寄せる方向にESDが進化することが必要でしょう。今後のESD研究に期待します。

振り返って
長澤 徹 釧路校 教授
  長 澤   徹
 研究室の棚の整理をしているとき、古い封筒に入った書類を見つけたのですが、2~30年前に書いた論文のコピーでした。当時は、ワープロもなくすべて手書きの論文でした。修正部分があれば、最初から手書きで書き直すことが義務づけられたものでした。また図表もロットリングペンで書いていました。今では、コンピューターのファイルに記憶しておき修正箇所だけを直せばよく、図表もコンピューターで作成でき、論文の修正時間は、はるかに短縮になってきました。また学会事務局に論文を送付するときは、書留便にて送り、到着に気を使ったものでしたが、今や論文をメイルで短時間で送ることが出来、時代の移り変わりを感じています。
  私は、昭和53年の4月に北大から転任で釧路校の技術・職業科の機械担当で赴任しました。工学部から教育学部へときたもので、右も左もわからない状態で、講義や、演習を行う時期もありました。年月の経過とともに、機械や実験設備も整ってきて、学生への教育に充分応えられるようにもなってきました。
  平成5、6年頃には、釧路校に大学院の設置準備が求められ、平成7年には、技術科をはじめ4専修を立ち上げることが出来、さらに教育の充実が図られました。その後、大学の再編がなされ、釧路校は小学校教員養成課程のみとなり、現在に至っております。
  道東および帯広地域の教育の拠点として、釧路校の役割は重要であります。地域への貢献としてさらなる釧路校の発展を願うと共に、35年間の大学教員生活を続けられたことに対して、感謝いたします。最後になりますが、北海道教育大学の益々の発展と教職員の方々のご健勝を祈念いたします。

今思えば、すべては緑が丘2丁目から…
村田 文江 釧路校 教授
村 田 文 江
 岩見沢分校に着任したのは昭和59年10月。ジョークとして教員の5分校異動が話題になることはありましたが、釧路校での定年退職は、まさかの想定外。「今思えば…」シリーズでふり返ってみます。
  当時、岩見沢分校は小学校教員養成課程に再編したところで、それにともなう新規採用の若手(いわゆる団塊世代)の元気が良かったのが印象的です。定例で開催する総合教育部の研究会は、教育学、教科教育、教科専門を問わず、話題提供者を中心にした議論と、その後のしばしご歓談…が相俟って、今思えば、あれがFDの場でした。
  小学校教育を学び直す場は、教育実習委員会の実務を通しでした。そして、これまた今思えば、大学と学校現場が連携して教育実習の指導に取り組むという、今日では当たり前の指導体制を作りつつあったのでした。実情は附属学校を持たないための苦肉の策でしたが、岩見沢市内7つの小学校と連携した少人数クラスを編成し、授業参観~教材研究~実験授業を位置づけた事前指導は、実習前の不安におののく学生の心身を鍛え、子どもに向き合う心構えを醸成しました。
  指導体制の中核を担ったのは、小学校教育の場から大学教育へ来られた渡邊守夫先生で、これまた今思えば、実務家教員の先駆けと言えましょう。渡邊先生はへき地教育実習にも尽力し、それはそれは丁寧な学生指導をされました。当時の私はその意味に気づくより、己の興味関心を優先していたと、深く反省の念を持って今思う次第…。
  平成9年、へき地教育研究施設が岩見沢校に移転し、私も事務局の一員になりました。今思えばそれが、教員養成カリキュラムにへき地校体験実習が位置づく契機となりました。
  今思えば、岩見沢分校同期で一緒に定年を迎える予定だった、国語科教育の森田茂之先生。今年は十三回忌ですが、今こそ森田先生と教員養成の来し方行く末を語りあいたい・・・と切に思います。

全ての皆様に感謝
鈴木 富士雄 教職大学院 教授
鈴 木 富士雄
 38年間の公立学校教員を定年退職し、その後、本学教員として5年間勤務しましたが、教職大学院の先生方をはじめ多くの皆様に大変お世話になりました。そのことに心から感謝申し上げます。
  本学の将来像についての教授会での議論やすぐれた教師を育てるための授業や研究に取り組む先生方から刺激を受け、自分の役割を果たすことができました。
  また、教職大学院の授業では、現職の先生方や学部卒業の学生の方々の、教師としての力量を向上させようと努力する真摯な姿勢から、私自身も教員としての在り方を更新することができました。  
  2年間の学びを通して日々成長していく院生の姿や本大学院での学びを終え学校現場で活躍する修了生の様子に接したとき、本大学院で仕事が出来たことを嬉しく思います。
  かつて小学校に校長として勤務していたとき、修了式の日に、担任から渡されたばかりの通知表を持って、私の部屋を訪れた一人の子どもを思い出します。その子どもが、「校長先生、来年も、○○先生だったらいいな」と帰り際に小さく呟きました。その呟きを聞きながら、子どもの担任の新任教師が、「子どものための教師」になろうと夜遅くまで教室に残って教材研究をし、日々の授業や学級経営について何度も先輩教師から指導を受けていた姿を、私は思い浮かべました。そして、その努力が報われていることに安堵しました。同時に、未来に向かって積極的に生きる姿勢を子どもと共に追求している若い教師を育てることへの責任も感じておりました。
  今、2度目の退職に当たり、このような「子どものための教師」を目指して努力する教師を育てる教育大学であってほしいという思いを強くしております。
  北海道教育大学の益々のご発展、教職員の皆様のご活躍を心から祈念申し上げます。

お世話になりました。ご発展をお祈りします。
福井 雅英 教職大学院 教授
福 井 雅 英
 教職大学院の発足に合わせて本学に着任し、矢の如き光陰。曲折多く密度も濃かった5年間を振り返って、退職のご挨拶を述べたいと思います。
  揺れ動くような教育改革の動きのなかに誕生した専門職大学院としての教職大学院は、ある種胡散臭い存在とみられている感じがしました。とはいえ、様々な試行錯誤はあったにしても、現職教員の力量向上への社会的な期待がその背後にあったことは間違いないと思います。しかし、着任の当初は本学内の会話においてさえ「教職員大学」などと呼ばれることもありました。ことほど左様に認知度も高くはなかったのです。そうした中、45名の定数がなかなか充足せず、全学的にご心配をおかけしました。
  全国の多くの教職大学院が、その入学生のかなりの部分を教育委員会派遣に頼っています。北海道の財政事情もあって、発足時には本学教職大学院への独自の派遣枠はありませんでした。しかし、そのなかでも、自ら志願し熱意に燃えて入学してくる現職院生が続きました。これは本学教職大学院の誇るべき特色です。行政上の支援がなくても、「現場で直面する課題を考えたい」、「自分の実践を振り返りたい」、「もう一段向上したい」、というこうした院生の学ぶ意欲にこちらも背筋の伸びる思いがしたものでした。私自身が、修士も博士も現場に身を置き、同僚の支援を得て働きながら14条特例などを使った通学でしたから、とりわけ現職院生の努力に応えたいと思ったものです。
  大学院で2年間の学びは教職人生のオアシス、修了後も飛び込める教師生活の駆け込み寺。私は教職大学院がそのような存在になればと願ってきました。そのためには、大学全体が、教育大学としての使命を貫いてもらいたいと願います。変転する南風に翻弄されず、北海道という北の大地に根ざし、例えば、過疎や高齢化なども含む地域の課題を教育の課題と考えるような基本精神を望みます。5年間お世話になったことに深く感謝しつつ、北海道唯一の教育大学としての一層のご発展を祈ってご挨拶とします。

心理臨床と特別支援教育の接点を求めて
森 範行 大学院教育学研究科 教授
森   範 行
 私の心理臨床活動は院生時代に始めた精神科病院臨床から始まります。その後、本学に奉職することになり、最初の19年間は函館校の養護学校教員養成課程で障害児心理学を担当させていただきました。ちょうど養護学校義務化の時期と重なり、附属養護学校で自閉を伴う重度の知的障害児と関わることから始まりました。言語がコミュニケーションの手段としてほとんど無力であることを思い知らされ、途方に暮れる毎日でした。
  そのような暗中模索の時に日本特殊教育学会ワークショップでINREALアプローチに出会いました。言語以前のコミュニケーション能力の育成を中心としながらも、基本原理は子供中心の遊戯療法と同じであることに光明を見ました。
心の表現を促す手段としてはイメージレベルの表現が可能な箱庭療法に着目しました。平成8年度に京都大学に内地留学し、箱庭療法を体験的に学んで参りました。
  実践センターに教育相談部門が設置されることに伴い、平成12年に札幌キャンパスに移りました。ここでの8年間は軽度発達障害児の教育相談に追われる毎日でしたが、ここでの臨床経験がその後大学院学校臨床心理専攻の専任教員になってからの研究と教育に大いに役立ちました。
  特殊教育が特別支援教育と名称変更になり、発達障害の概念の裾野も広がりました。私は時代の波に呑み込まれそうになりながら、研究と教育に昇華しようと悪戦苦闘してきたように思います。
  かつて「個に応じた教育」は特殊教育の標語でしたが、特別支援教育の概念の下に今では普通教育にも取り入れられています。心理臨床と特別支援教育が近づいてきているように思われます。
  多くの皆様に支えられて通算32年間にわたり、及ばずながらも職責を全うすることができました。同僚の先生方、学生、クライエントとして出会った多くの児童生徒の皆様に感謝申し上げます。

ゴールからスタートへ
佐々木 和彦 財務部長
佐々木 和 彦
 このたび3月末をもちまして定年退職することになりました。
  顧みますと、昭和46年東京大学に採用されて以来、国立教育会館、文部省大臣官房会計課・文教施設部計画課、滋賀大学、宇宙科学研究所、琉球大学、群馬大学、日本芸術文化振興会新国立劇場部、国立国語研究所、島根大学、国立仙台高専、そして北海道教育大学と、文科省の12の機関に勤務し、多くの貴重な経験をさせていただきました。
  全国で1番の広域なキャンパスを持つ本学での3年間は、素晴らしい上司、同僚、後輩と、時の運にも恵まれ、おかげさまで大変充実した忘れがたい日々を過ごすことができました。
  この間、全学生寮の改修、札幌駅前サテライトの新設、函館校マルチメディア国際語学センターの整備、岩見沢校の新体育館整備(岩見沢市より1億円の寄附)、キャンパス間双方向遠隔授業システムの更新、各キャンパス建物の耐震改修(IS値0.5以下全て終了)など施設設備の予算化及び整備が格段に促進され、当面の課題をクリアできたものと思っております。
  また、本間学長より文化部長の特命(!?)をいただき、札幌校の「芸術の回廊」の整備、第1回北海道教育大学収蔵“書”展の開催等に携わることができまして誠に光栄でした。これらを通じて、本学卒業生の芸術文化水準の高さに驚嘆させられました。絵画、彫刻、工芸等を含めた大学美術館の早急な実現を期待しています。本学の5つのキャンパスの保有資産(含む潜在)を合わせれば、必ず立派な内容になるものと確信しています。
  学長をはじめ、理事、監事、副学長及び教職員のみなさまのご指導とご厚情により、大過なく勤めることができました。ここに心から感謝するとともに、わが財務部全職員に御礼を申し上げます。
  4月1日からは、文科省大臣官房総務課の専門職として再任用で勤務することになりますが、今後とも変わらぬご厚誼、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
  最後に、北海道教育大学の益々のご発展とみなさまのご活躍を心よりお祈りいたします。


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