各種情報・行事等 |
退職にあたって |
研究人生の生育初期
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研究室や実験室の片付けをしていたら、ガラクタの中に昔使った実験装置や器具をたくさん見付けました。私が若かった頃研究に使ったものです。 当時の研究費は極めて少なかったし、私の研究で活用できる市販の実験装置類はほとんどなかったので自分で作ることになったのです。これらの製作には日曜日等の休日返上で多くの時間を費やしたものです。おかげで木材加工や電気細工はかなり上達しました。幸い研究は順調に進展したので、数年毎に新しい装置類の製作を繰り返すことになりました。片付けの時に見つけたものは苦労して作った懐かしいものであり保存しておきたいところでしたが、時代遅れで他の人にはただのガラクタだろうと涙を呑んですべて棄てました。 私は栽培学や作物学を担当してきました。作物を育てる基本的な目的は、多くのあるいは大きな果実や種子、イモを収穫し、たくさんの美しい花を咲かせることです。しかし、これらは自然に得られるものではなく、温度、水、光、栄養(肥料)などの環境要因と人間による肥培管理(栽培条件)が適切に加えられた時に初めて実現されるものです。とくに発芽(種まき)期から1か月ほどの「生育初期」は作物にとって極めて重要な時期です。この初期生育の良し悪しは収穫量などの最終的な成果を決定するといっても過言ではありません。従って農家の人たちもこの時期に特に神経を使っています。多少飛躍かも知れませんが、心身の発達が急激な小学生や中学生の時期はひとの人生における「成長初期」ではないでしょうか。 本学で研究を始めた10年ほどの間は私の研究人生の「生育初期」で、この時期の苦労は決して無駄ではなく、ささやかですが、研究生活の充実と自信を得た貴重な時期だったように思います。このような人生を過ごさせてもらった北海道教育大学に感謝しながら、子ども達の幸福を実現できる教員養成の建設とさらなる研究環境の充実を祈っております。 |
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定年退職を向かえて
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昭和51年4月に母校である北海道教育大学札幌分校に採用され、36年が経ちました。学生時代を合わせると40年間お世話になりました。 藻岩山のふもとの旧校舎をはなれ、現在のあいの里の校舎に移転し、以前の学生歌、「幌都の南 新たなる文化の華の咲くところ…」とありましたが、「明け行く原野に ひびく藍色の志高く…」とうたわれる原野の中の大学校舎でした。かつてはJR「あいの里教育大」駅から校舎が見えたものですが、今ではすっかり様変わりし、家々が建ち並び、大学前のバス道路「学園通り」の木々も人の背丈から4、5倍に成長しました。 この間、大学は様々の変貌を果たしました。カリキュラムの大綱化があり、ゼロ免課程が設置され平成8年度から10年間、新しくできた「国際理解教育課程」の学生も英語学研究室に所属するようになりました。この間、新課程にふさわしい内容のゼミの指導をと努力したことが昨日のことのように思い出されます。高い志の学生の多様な華を咲かせるよう、時代に合った大学の形と内容を目指して私自身が学ぶことが多々ありました。 この間、私自身の経験を膨らませたものとして、平成2年から3年にかけて、在外研究員としての英国シェフィールド大学での研究があります。同大学ではD. Burnley博士の「History of English」の講義を受け、N. Blake先生からシェークスピアの英語の読み方を学びました。B. Donaghey先生からは古文書の読み方を教わり歴史の資料に魅せられました。 アジアやヨーロッパなど多様な国からの学生が学び、国際交流を目の当たりにしました。このような経験が、先に見た新課程ができた時の指導に、またその後の1990年当時の国際交流でロンドン大学などとの交流に役に立ちました。 最後になりますが、今後、本学の益々の発展と、皆々様のご健勝をお祈りいたします。長い間本当にありがとうございました。 |
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定年退職にあたって
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日本史学を生業とする研究と教育の旅もいよいよゴール目前である。函館校を舞台にしてきた旅装を解くにあたり、少しくその来し方を顧みたい。 大学院の修士・博士課程の時期は、明けても暮れても鎌倉仏教を中心とする日本中世思想史のことしか眼中になかった。今にして思えば、当時の自分は「鎌倉仏教」のような一般史にしか研究価値を見出せない偏屈者であり、世に言う「専門バカ」であった。この偏屈者に新たな地平を与えてくれたのが、「函館」という場であった。ここで、地方大学と地域との関わりについて、「自治体史編纂」を通して学ぶことができたからである。「松前町史」「函館市史」を皮切りに、多くの方に導かれながらの史料蒐集と通史執筆の中に、地域史研究の意義を確信できたのは幸せであった。 この自治体史編纂との出会いを契機に、私は「中世思想史」のほかに二足目の草鞋を履く旅人となった。二足目の旅となった「上磯町史」「乙部町史」「高龍寺史」「亘理伊達家史料」には、いつも卒業生と大学院生が同伴してくれた。若いパワーに支えられた監修と編集の旅は、実に有意義であり、至福の時間であった。そのメンバーの12名が、私の定年退職の記念として『地域史と歴史教育』(北海道出版企画センター)を公刊してくれたのは、「教師冥利に尽きる」の感である。函館校日本史ゼミの大きな財産と評しても大過ないだろう。 函館での35年に及ぶ旅の合間に、教員養成課程からゼロ免課程への課程変更が「総合科学課程」「社会情報課程」「人間地域科学課程」と続き、今また「新学部構想」の最中にある。その変革の中で、小さな歯車ではあるものの、代議員・附属函館小学校長・附属函館図書館長として陰陽に関わった者の一人として、「新学部化」の実現を心より切望するものである。結びにあたり、恩師・先輩・同僚ならびに事務系職員の方々に深甚なる謝意を申し上げます。有難うございました。 |
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定年という区切りのときを迎えて
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前任校学長の「サッカー部を強くしてほしい」という言葉から、私自身の大学教員生活が始まりました。サッカー部の強化は、きわめて順調に推移していきましたが、やがて、私のこころに「サッカーの実践だけでいいのか」という疑問が湧いてきていました。そんな折に、本学の人事情報を知り、応募させていただいたという次第です。 結果として、本学では37年半の長きにわたってお世話になりました。函館校は教職員と学生の距離が近く、とても温かな雰囲気があります。函館という街の魅力もさることながら、真摯な姿勢をもつ学生と協力的な事務職員に支えられて、函館(北海道)暮らしは、充実したものでした。さらに、多くの方のご指導・ご支援・ご協力により、特にサッカーとスポーツの分野で、さまざまなプロジェクトに関わらせていただきました。一方では、サッカー関係の役員等として、全国各地(ときには海外も)に行くことができました。快適な日常と、ときどきは外の空気に触れる。このスタンスが私にとっては最高でした。 その間、プレーヤーとして、指導者として、大好きなサッカーに存分に携わることができました。中学1年生の時からの競技生活は、のべ53シーズンに及びました。理論と実践の融合が大切な分野ですが、研究もサッカー(スポーツ)を対象としたものが多く、いわば『サッカー三昧』の生活だったと言っても過言ではありません。 退職という大きな区切りの時を迎え、こころは穏やかに澄んでいます。これからは、勝負にこだわる立場から少し離れて、多くの仲間とともに、スポーツの真の楽しさや豊かさを求めていきたいと思っています。53年間、週末は、ほとんどグラウンドで過ごしてきましたが、今は、これまで「できなかった」ことに取り組める喜びを感じています。 4月からは定年超採用(教員)として、引き続きお世話になります。ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。 |
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見果てぬ夢
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1年半前に、手術で完全に取れたはずの胆管癌が再発し、北大病院で抗がん剤が効かねば1年、効けば2年と宣告され、旭川医大病院に移って放射線と抗がん剤治療に苦しむなか、見る夢は定年退職後の暖かい土地での海辺の生活である。朝昼夕と海辺を散歩し、療養しながら、最後の研究テーマである世界宗教の勉強をする。海辺で倒れるもよし、潮の療養で長生きするもよし。世界宗教の著作を完成できるもよし、できないもよし。夢は暖かい土地での海辺の生活である。 先ず放射線治療、続いて抗がん剤治療によって胆管癌は殻の中に閉じこもり、浸潤・拡張することも縮小することもなかったが、それは1年しか続かなかった。半年前から癌は肝内に浸潤・拡張を始め、体は抗がん剤治療によって毒されていった。恐るべきは抗がん剤治療の副作用で、骨髄毒性、造血抑制によって死すべき肺炎、寝たきりをもたらす。癌の方が怖いのか、抗がん剤治療の方が怖いのか、わからなくなる。癌が増殖するなかで、抗がん剤治療をどうするか、いつ止めるかの決断をしなければならない。 見果てぬ夢が誘惑する。旅立ちの時である。大震災、地震多発も何を恐れることがあろう。太陽が降り注ぎ、潮が香るなか、散歩し、療養し、思索する。倒れるもよし、生き延びるもよし。 |
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美術科今昔
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30歳を前に結婚も決まり、そろそろ学生生活も終わりにしようと都内の高校に就職を決めたうえで、恩師にはよい仕事を紹介くださいとの儀礼的な挨拶をした半月後くらいに、「君は北海道出身だからここを受けなさい。」と旭川校の教官募集要項を渡されたのであった。 採用が決まったので顔合わせしますとの連絡を受け、初めて旭川に来たのは36年前の3月、未だ雪が多く残る寒い日でした。 美術科はデザイン、彫刻、2名の絵画分野担当教官による4人体制で、各々専門科目の他に幼稚園、小学校、中学校美術教育を分担指導しているとのことであった。教員養成課程であるのに何故美術科教育担当教官を採用しないのかと直ぐに質問した記憶があり、北海道教育大学における教科教育担当教員の配置計画は美術科を残して終了したとのことで、3人の先輩教官たちは君が定年になるまで配置はないだろうと残念そうに説明してくれた。 当時の教官会議は、窓外に学生達のシュプレヒコールが聞こえれば皆一様に緊張したものの、熱い議論には慣れっこで、今となっては懐かしい。教官会の後は、美術科主任の部屋で酒を飲みながらの講座会議が開かれ、流れで街に繰り出すことが大概で、下戸がすっかり楽しめるようになった。 将来計画検討委員会が全教科・課程に大学院を設置するとの決定をしてからは、全分校・全講座とも激動の数年間であったろう。旭川校美術科でも、風貌が典雅でお殿様然とした平全学委員会委員長による叱咤の下、自身の業績向上と彫刻、美術史・美術理論、美術科教育の人材探しに奔走した。結果、先輩教授たちの悲願でもあった5分野と2名の教科教育担当教官による指導体制が整い、大学院が設置されたのであった。 今後とも、道北における美術教育の拠点としての旭川校美術科の発展を祈ります。 |
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退職を前にして
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指にキーを掛けたまま、「鍵がない」と必死に探しまわる。石鹸をつかんだ途端、スルリと滑り落としてしまう。踏み台に上がってグラグラと倒れそうになると、以前は倒れる前に飛び降りられた。この頃は、「倒れる!飛び降りなきゃ」と思いながら、踏み台とともに倒れてしまう。用事を思い出して椅子から立ち上がった途端、何をしようとしたのか忘れてしまい、考え込むが思い出せない。以前は思い出せたのに、今ではまったく…。おまけに集中力が続かない。ここ数年、体力が急に衰えた。嘆かわしい限りである。これが老化というものなのだろう。 思い起こせば我々の世代はテレビの放映が開始され、電気屋の前には人だかりが出来た。「さっき絵が動いた」と興奮しながら口々にするのを聴き、ブラウン管を観ながら絵が動くのを待っていた。そして、電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機など、生活を便利にする多くの製品が次々と登場し、それを目の当たりにしてきた。きわめつけはパーソナルコンピューターの登場。そして携帯電話の普及。いつしかメールが手紙に取って代わられた。老化した頭では、もはや処理出来ない事柄ばかりである。現在は、ほぼ一家に1台は車も有る。季節の野菜は年中口にすることができるし、贅沢この上ない生活を送ることができる。反して、子どもの頃には当たり前に飛びまわり、窓や玄関から飛び込んできたホタル、オニヤンマ。綺麗な声で秋を告げてくれたコオロギ、キリギリスなど。今ではほとんどお目に掛かれないし、滅多に聴くことができなくなった。夜空に天の川が無くなって久しい。幼い頃から野山を駆け巡ってきたものとしては、甚だ寂しい限りである。 そればかりか、自分の時間を持つことすら、難しい世の中になった現在。古谷綱武が、「最近は誰でもが自分を顧みる時間がない。一日数分でも良いから自分を顧みて、ひとであることを確かめる事が必要である」と。もう、50年も前の言である。現在はどうなのであろう。これが進歩と呼ぶものなのか? 昭和52年、旭川校に赴任した。センター試験の導入、特別選抜の実施、大学院の設置、新課程の新設など、大学は優秀な人材を獲得するため、いろいろと工夫を重ねてきた。35年の教員生活。果たして自分には何が出来て、何を為し得たのか。必死になれば1ヶ月で出来るような事柄に35年も掛かってしまったのではないだろうか?教員としての役目を果たせたのだろうか?こんなことばかりが、頭の中を巡る。これからは、世の中の喧噪と言うより、社会の進み過ぎる速度に逆らいながら、自らを顧み、これまでを"是とするのか非とするのか"あるいは"是非なし"とするのか、評価したい。夕日のなかで番茶をすすりながら三毛猫を膝に抱いて背中を撫で、人生の意味を考えよう。世の中の変化を眺め楽しみつつ、のんびりと暮らしたい、と願う日々である。 今日まで長い間、多くの人たちに口では言い尽くせないほど親切にして頂いた。心から感謝し、御礼を申しあげたい。独りでも多く、優秀な学生が巣立つのを願いながら…。 |
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定年退職にあたって
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私が北海道教育大学教育学部岩見沢分校に降り立ったのは、昭和55年の3月であった。岩見沢分校はこの4月に「小学校教員養成課程」として生まれ変わるのである。校門を入ると、新旧の建物が混在した不思議な空間だった。現在の駐車場の入り口付近には木造の「食堂・床屋・厚生施設」があり、左手には木造校舎や煉瓦造りの図書館があった。第2駐車場には旧木工室がまだ残されており、今の駐輪場のあたりには男子寮があった。この男子寮は耐震構造がどうのという段階を超えて、自然倒壊しかねないほど老朽していたが、学生自治会は移転に反対し、学生委員会と連日の団交を重ねており、気概があった。 分校全体はのどかな雰囲気ではあったが、先輩の大先生たちは、自分が大学経営を引き受けるから、若いのは「研究」しなさいという感じであった。そのため今でも大学経営の何たるかも知らずに退職を迎える。そのためご迷惑をかけたことも多々あったかと思われる。 小学校教員養成課程に入学してきた学生は、分属希望調書によって振り分けられるため、希望順位4、5位の学生も居たりした。入学時実技試験がないため、デッサンも初めてという学生が多かった。ある年、数学希望の学生が美術に入ってきたが、徐々に美術表現の面白さに目覚め、美術のリーダー的存在になったことも教師としては嬉しい思い出の一つである。 平成18年、岩見沢校は「芸術課程・スポーツ教育課程」となり、専門を学びたいという意欲的な学生によって、新しい授業を立ち上げ、その反応の良さに驚きもし、また私自身が学生に育てられていることを実感したのであった。 これから新学部の設置という難関が待ち受けていますが、現コースの魅力を残した形で、魅力ある大学になってくれれば幸いです。30年間大変お世話になりました。ありがとうございます。 |
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定年退職にあたって
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昭和45年4月に、当時藻岩の麓にあった札幌分校に採用になり、公務員生活のスタートを切りました。この年の出来事は、電卓が初めて10万円を割った、大阪で日本万国博覧会の開幕、ビートルズが解散等々、そして三島由紀夫が割腹自殺した年でもありました。学内には、まだ学園闘争の名残がありまして、ヘルメットをかぶり「闘争勝利」を叫んでいる学生もいた時代です。往時を振り返ってみますと、今では嘘のような時代でした。 平成13年1月にいったん本学を離れ、他の大学での遊学を経験し、平成22年4月に本学に戻ってきて、今年3月で定年退職を迎えることになりました。無事にこの年を迎えることができましたのは、良き上司、先輩、同僚、後輩の方々、さらに関係した先生方の暖かいご指導ご支援に支えられたおかげであると深く感謝いたしております。 北海道教育大学には、約33年間在職させていただきました。多くは札幌地区での勤務でしたが、平成5年1月には釧路校で釧路沖地震を経験し、瓦礫化した校舎の復旧に大変苦労をしたこと、また、平成10年には教員免許法の改正に伴い再課程認定の申請に奔走したことが今となっては懐かしい思い出となっております。 健康にはあまり自信はありませんが、4月からは“美意延年”を心がけて新しい生活を送りたいと思っております。 最後になりますが、学部再編等厳しい業務運営になるものと思われますが、北海道教育大学のますますのご発展と皆様方のご健勝をお祈り申し上げております。本当に長い間ありがとうございました。 |